関内駅からほど近く、アートやジャズをテーマとした街づくりが魅力的な吉田町の一角にある居酒屋「愛嬌酒場えにし」。初見の人は謙遜してしまう門構えとは裏腹に店内へ入ると看板にふさわしい、愛嬌たっぷりの女将が出迎えてくれた。落ち着いた感じの店内からは暖かい笑い声が聞こえ、地場産品や旬の食材を使った料理やお酒が用意されている。
女将 田村由希絵
お店を立ち上げたのは2011年4月。関内に店を構え、17年1月に吉田町へ移転。人と人、街と街をつなげていきたいと関内まちづくり振興会の副会長や県神輿保存会の相談役も務めている。
「いろいろなものを食べてきたけど、母親が作った切り干し大根の煮物が忘れられない」。シンプルな「おいしさ」をお客様へ届けたいと地元食材、無添加、旬の食材にこだわっている。横浜でもおいしい野菜がたくさん作られていることを知ってほしい。地場野菜を取り扱っている「濱の八百屋」さんと連携して、店舗の縁側では毎月第1、第3木曜日に直売会を開催。地域のイベントにも積極的に参加している。
お店を開く前までは都内の広告代理店で広告プロデューサーとして華々しく活躍していたという。確かにこの人ならと妙な納得感を得た一方、仕事も生活も順調に進んでいるなかで、なぜ飲食業界へ転身したのか。
そこには、40才という若さで医師から申告を受けた中咽頭癌の診断が、自分の運命を大きく動かしたと当時を思い返した。
乗り越えた闘病生活
診断は、5年間で生存率が約30%のステージ4。これまでのキャリアも一瞬で奪われ、頭に浮かんだのは当時小学校6年生の一人息子の顔。まだ死ねない。平穏な日々が、抗がん剤と放射線治療の地獄のような日々に変わっていった。
薬の副作用、鬱との闘いが続いた。笑顔は少なくなり食事もほとんど取れなくなっていった。退院してからも抗がん剤服用の生活は2年間続いた「明けない夜は無い。どんな状況でも諦めない!」家族と仲間に支えられながら、少しずつ笑顔を取り戻していけたと振り返える。
闘病生活を送るなかで、残すべきは「お金なんかではなく、家族や周囲の人たちの笑顔なんだ」という想いが大きくなり、心に深く刻まれた。
人があってこその自分
お酒を飲む機会が多く、食べることも大好きだった女将は、体調の回復とともに多くの人の笑顔が集まる飲食業界に惹かれ「いつかは、点と点をむすぶようなプラットフォームになるようなお店を持ちたい」と夢を持つようになった。
思い立ったらすぐ行動。病と闘いながら仕事に復帰した女将は、昼は広告業界、夜は幼馴染の女将のお店に頼み込んで働かせてもらうようになったという。夢を追いかけながら続けた武者修行の期間は、実に2年半。飲食業界のいろはを身に付けていった。
出店の地を関内にしたのは、自分の生まれ故郷「横浜」に恩返しをしたいという気持ちが強かったから。自分が生まれ育った「街」を起点として多くの人や街をつなげていきたい。横浜から飲食店を世界にPRしたい。地域の行事にも積極的に参加。女将の想いは関わる人たちを巻き込み様ざまな活動へ発展していく。
そのひとつに、年間を通してお店で提供されている日本酒「夢高尾」の存在がある。このお酒は、神奈川県大井町で育ったお米を使い、地元酒蔵の井上酒造が醸造している。水も空気もお米も加工も100%大井町産なのである。
全部が大井町で作られる日本酒は、耕作放棄地を昔の田畑の風景に戻したいと発足したのが起こりで、その想いに共感した女将は、店舗スタッフを巻き込みお店総出で、活動に協力している。全国を行脚し、その時々の旬の食材を提供しているお店では異色の逸品で、想いが重なったものは特においしいと女将は語る。
生きてる。それだけで大ラッキー
吉田町に移転し2階に宴席を構えるようになったがコロナ禍の影響で団体客の足は遠のき経済的な影響は大きかったと話す。しかし、開店当初の準備に比べれば屁でもない。着物の着付け体験や地域企業とのコラボに加え、趣向を凝らした(ここでは控えたい)企画を多々実施して、苦難を乗り越えてきた。
人と人、街と街をつなげようと精力的に活動している女将だが、がんのケア活動など「まだまだ」やりたいことがいっぱいあると笑顔で話す。やはりこのバイタリティこそがこのお店の魅力なのだろう。
愛嬌酒場えにしには、自分がこれまで培ってきた経験や想いを伝えたいと、一緒に店を支えている若女将が2人いる。私と同じことをするのではなく「自分たちなりの花を咲かせていってほしい」そんな思いを募らせている。
店名のえにし(縁)には人の想いを紡(つむ)いで線にするという女将の想いが込められている。
そんな女将の人情に誘われてか、今日もえにしには疲れた心と体を癒そうと、多くの人たちが暖簾をくぐる。
愛嬌酒場 えにし